地域に根差し、人と街の成熟を願う<後編>

こんにちは。新村組の望月咲江です。地域密着への想いをお伝えするべく、3代目社長・望月きよみへのインタビューを2記事に渡ってお届けしています。

<前編>をまだお読みいただいていない方はコチラの記事をご覧ください

前編では、社員が地元で働くことのメリットや、新村組を頼ってくださる皆様との関係をご紹介しました。後編では100年の歴史の中で、地域と結ばれてきた絆を振り返ります。

焼津と共に歩んだ100年

「現在の新村組はクレーン・重量物の運搬業を主軸としていますが、創業当時は地域の“なんでも屋さん”のような仕事からスタートしたそうです。

初代社長の喜代太は農家の次男でした。裕福な農家ではなく、次男の喜代太が継ぐだけの資産がなかったため、独立して事業を起こすことになったと聞いています。そこでスタートさせたのが、鳶職でした。当時の鳶職は、冠婚葬祭、消火活動、神輿の作成、橋掛け、井戸の屋根造り、インフラ整備・保守など、人が暮らす街を支える役割を広く担っていました。喜代太の生家も鳶職のような仕事を請け負うことがあったそうですが、専業ではありませんでしたから、小さな仕事をいただきながら技術の向上に努め、5~10人程度の規模まで成長させていったそうです。

やがて経営権は2代目の政男に移譲されました。それまでは“なんでもやさん”としてお仕事を請け負うことが多かった新村組ですが、政男が受け継いでからは徐々に主事業が定まっていったと聞いています」


▲昭和39年に導入した1台目のクレーン

「政男は喜代太の長男として生まれました。地域への想いが強く、焼津神社の祭りでは子どもながらに中心的な役割を担っていたそうです。中学を卒業してからすぐに新村組の一員として働いていましたが、祭りで繋がったコミュニティの延長で、いつでも友達に囲まれていたとか。

仕事は大変だけれど、街に出て旨いものを食べて、友達と遊ぶことを楽しみとしていたようです。政男は横のつながりを大切にする人柄だったようで、いまだに「政男さんにはよくご馳走になった」と、声をかけてくださる人がたくさんいます。とある人は、『焼津には金持ちはいっぱいいるけど、ああいう風に、周りの人間を喜ばせるために金を使う人はいない』とも言っていました。きっと仕事の楽しみ方や生きたお金の使い方を心得ていたんだと思います。

祭りの役からはじまり、人生のベースにはいつも地域とのつながりがありましたから、仕事でも地域を重じていたのでしょう。自分たちの街は自分たちの手で作りたいという意識もあったはずです。新村組が1台目のクレーンを購入したのは昭和39年でしたが、そのきっかけは焼津市民体育館の建設でした。地域外から来た工事業者が焼津の設備を作っている様子に違和感を覚えたそうです。思い切って購入した初めてのクレーンは、自分たちの街を守るために必要な力だったのかもしれません」


▲新村組の所有する自走式のレッカーの中では最も大きい350トンレッカー納車の様子

「工事の規模が大きくなっていったのは、政男が40代の頃、私は小学生くらいの頃でした。東海道新幹線の建設が始まり、時代の変化やお客様のニーズに応え続けられるように、より大きな機械の導入を推進し続けた時期です。

お仕事で得たお金で、新しい機械を購入し、次のお仕事につなげていきました。東海道新幹線、東名高速道路、県道416号線大崩海岸海上橋など、焼津の発展に次々に関わらせていただけたのも、機械があってこそ。設備優先の商売ですから、現在も機械への投資は重視していますね」


▲150号バイパス建設の様子

生かし生かされる関係

「新村組は田んぼに落ちた耕運機の救出からインフラ設備の建設まで、地域の方が求めてくださっているならば大抵のことは引き受けたいという気持ちは社員皆が持っているのではないかと思います。

一見、新村組が人助けをしているように見えるシーンもありますが、新村組も皆様に生かされている存在だと思っています。この街がなければ、ここに人が住んでいなければ、街を作る仕事である建設業者は食べていくことができません。新村組として仕事をさせていただいている限りは、支え合う関係を地域の皆様とは作っていきたいですね。初代社長の時代からそうしてきたように、地域で生きる者の使命を全うしたいと思います」

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